政治変革的な本質

 啓蒙の観念から政治変革的な本質を抜き去ったことは、如何にも十七八世紀ドイツ観念哲学に相応わしい所作であり、プロシア的観点からすれば必要な所作であり、それ故に世界の進歩史から見れば必然的に誤謬だったわけだ。併し、この誤謬も火のない処に立った煙のような意味に於ける嘘や作りごとではないことを、注意しなければならぬ。実際、啓蒙が宣伝其の他と異る処は、それの或る限度に於ける非政治的特色であった。今それはこうだ。――啓蒙活動の実際的な形態を取って見れば、夫は専ら文筆言論活動なのであるが、啓蒙は之によって出来るだけ多数の大衆を動かすことが必要であることは当りまえだ。そう考える限り、啓蒙を政治的言論活動から区別するものは一寸ないようにも見える。だが、今特に政治的機能を特色とする大衆的言論の諸形態を並べて見ると、オルガニザチヨンの次に、アジテーション、それからプロパガンダという系列となるだろう。レーニンによれば、プロパガンダは百人を目安として物を考えることであり、アジテーションは数万人を、之に対してオルガニザトールや、レヴォルチヨンスフューラーは数百万大衆を、目安として物を考えねばならぬという。その際プロパガンダはアジテーションに較べて遙かに原則的であり、後者の戦術的スローガン[#「戦術的スローガン」に傍点]を前者は戦略的分析[#「戦略的分析」に傍点]にまで結びつけるものと云われている。で、プロパガンダはアジテーションより、そしてアジテーションはオルガニザチヨンより、より原則的であり、即ち又時局の時々刻々のアクチュアリティーからそれだけ離れていることになる。処で啓蒙はプロパガンダにも増して、この意味に於て、より原則的であり、従って又それだけ非時局的なので、アジテーションが戦術的スローガンを、プロパガンダが戦略的分析を、内容とするなら、啓蒙は云わば戦備的教養[#「戦備的教養」に傍点]を内容とするとも云うことが出来よう。従って之はそれだけ一応、戦場的な意味での政治的特色[#「政治的特色」に傍点]を減じる事になる。啓蒙はオルガニザチヨンやアジテーションにも増して、多数大衆を対象とする筈だが、それにも拘らずその内容は、プロパガンダ以上に原則的であり非時局的なのだ。啓蒙がプロパガンダ・アジテーション・オルガニザチヨン等々の系列に横たわる政治的言論活動[#「政治的言論活動」に傍点]と異って、所謂純文化的活動なる所以が之だ。 この本質は見逃すことは出来ないわけであるが、併し啓蒙のこの本質をハッキリと認定してかかるということと、一切の言論・文化・更に政治活動までが凡てこの啓蒙の本質によって蔽われねばならぬと推理することとは全く別だ。啓蒙の本質を把握し之を活用することと、啓蒙主義[#「啓蒙主義」に傍点]に陥ることとは別だ。政治的活動は啓蒙活動にのみ俟たねばならぬとか、啓蒙は政治的活動から独立であるべく、その意味に於て純然たる文化活動以外のものであってはならぬ、とかいう啓蒙主義は、自由を主張することが自由主義になったり、ヒューマニティーの強調が人間学(主義)になったり、議会政治の尊重が議会主義になったり、経済活動の充実が組合主義になったりするように、極めて危険な論理的な虚偽なのである。――カントの如きは啓蒙の概念を定着するに際して、之をプロシア化せねばならなかったために、啓蒙の一応非政治的であるという実は極めて活動的[#「活動的」に傍点]な規定をば人の油断している間に、却って極めて制限的[#「制限的」に傍点]な規定にすりかえて了ったのだ。かくてカントは、啓蒙が一切の意味に於て非政治的であるということを、即ち政治的変革のファクターではなくてただの文化的向上の槓桿だということを、啓蒙主義的にシステマタイズして了ったわけだ。 つまりカント風の解明によると、啓蒙の一応[#「一応」に傍点]の非政治的特色(之は実はそれが一つの政治的活動であるが故にこそ必要な特色だ――丁度文学が本当に政治的な活動力を有つためには下手に政治的になることは許されないように)を逆用して、之を本当[#「本当」に傍点]に非政治的な特色へ引き直して了う。啓蒙の本来の政治的本質[#「政治的本質」に傍点]はどこかへ行って了う。丁度日本の「政治」が政治の名の下に却ってその政治的本質を隠して了っているので、もはや之を政治とは云い得ないように(代議士達のやっていることは政治であるか!)啓蒙も亦、わずかに「政治家式」の所謂「政治」のような意味に於てしか政治的ではなくなる。それが何か教育[#「教育」に傍点]とかポプュラリゼーションとか其の他其の他というものに帰しそうになる所以なのだ。

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